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#秋田城跡

秋田城の成り立ちと役割

何世紀も前の港エリア:
秋田城、大和朝廷の北の拠点

ポートタワーセリオンから南東へ約2キロメートル。1000年以上前、この場所には「秋田城(あきたじょう)」と呼ばれる大和朝廷の拠点(城柵:じょうさく)がありました。

秋田城は、8世紀から10世紀にかけての外交・貿易の重要拠点であり、後の日本国となる大和朝廷が置いた最北の行政機関でした。当時の天皇がいる都(現在の奈良県)からは800キロメートル以上も離れており、733年、本州北部の「蝦夷(えみし)」と呼ばれる人々への支配を強めるために建設されました。

蝦夷とは、本州北部に住んでいた、朝廷の支配下にはない人々のことです。秋田城の役人は、この蝦夷との関係を調整する役割を担っていました。彼らとの関係の変化に合わせて、城の姿や機能も変わっていきました。

現在、この跡地には博物館があり、城柵の一部などが復元されています。発掘調査は今も続いており、新たな発見があるたびに、蝦夷や大和朝廷時代の生活がより明らかになっています。

戦略と交易の拠点としての秋田城

秋田城の役人たちは、周辺の住民から税を集めたり、戸籍を作ったりしていました。彼らが集めた情報や収入は、大和朝廷が政治的・経済的な力を高めるために欠かせないものでした。また、この地域の先住の人々である「蝦夷(えみし)」と、秋田城の支配下にある住民との間で揉め事が起きた際には、その仲裁も行いました。ちなみに周辺住民の多くは、この北の地を開拓・定住させる目的で、朝廷によって移住させられた人々でした。

さらに、蝦夷との緊張関係が悪化したときに備えて、秋田城には兵士も配置されていました。878年に大規模な反乱(元慶の乱)が起きた後には、外壁が補強され、より大きな物見櫓(やぐら)が建てられるなど、将来の攻撃を防ぐために守りが固められました。

また、秋田城は現在の青森県や北海道の人々と交易を行うための重要な場所でもありました。米・鉄・土器・織物などと引き換えに馬・昆布・タカの羽、そしてラッコ・熊・アザラシなどの毛皮を受け取っていました。これらの貴重な品々の多くは都の朝廷へと送られ、日本列島全体につながる交易ネットワークが築かれていったのです。

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名 称
秋田城跡
所在地
〒011-0939 秋田県秋田市寺内大畑5
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018-845-1837
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#秋田城跡

古代における大陸との交流

古代の外交:大陸との交流

秋田城は日本海に近いという地理的な利点から、国際的な外交の窓口となりました。当時、大和朝廷とアジア大陸の国々との外交関係は、多くの贈り物を携えて海を渡る、大規模な使節団の行き来によって維持されていました。

秋田城は、古代の王国「渤海(ぼっかい)」からの使節団を迎える玄関口でした。渤海とは、現在の中国東北部から朝鮮半島北部、ロシア沿海地方にかけて存在した国です。渤海の役人たちは、727年から795年の間に6回にわたって出羽国(現在の山形県・秋田県)に上陸し、秋田城に立ち寄ったと考えられています。彼らはここで旅の疲れを癒やした後、大和朝廷の代表者と会見するために、はるか南の都・奈良を目指して旅を続けました。

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名 称
秋田城跡
所在地
〒011-0939 秋田県秋田市寺内大畑5
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#秋田城跡

秋田城跡歴史資料館

秋田城の歴史を解明

「秋田市秋田城跡歴史資料館」では、秋田城跡の発掘調査で見つかった数々の出土品を展示しています。秋田城は、700年代から900年代半ばまで、朝廷の地方行政や国際外交を担う重要な機関でした。

展示室には、公文書が記された木の札である「木簡(もっかん)」や墨書土器、記録係が使っていた道具類のほか、当時の武器や鎧などが並んでいます。資料館の外に出ると、復元された秋田城の塀の一部を見ることができます。また、受付では、かつての建物や人々の様子を遺跡に重ね合わせて表示することができるAR(拡張現実)アプリの入ったタブレットを無料で貸し出しています。

秋田城は900年代半ば頃にその役割を終え、その後長い間、歴史や場所さえも忘れ去られていました。しかし、1800年代初頭になると再び関心が高まり、1959年(昭和34年)には初の大規模な発掘調査が始まりました。調査は現在も続いており、秋田城での人々の生活について新たな発見が期待されています。

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名 称
秋田市立秋田城跡歴史資料館
所在地
〒011-0907 秋田県秋田市寺内焼山9−6
営業時間
9:00~16:30(年末年始休業)
お問い合わせ
018-845-1837
04
#秋田城跡

漆紙文書/人面墨書土器

漆紙文書

秋田城の発掘調査では、日常業務に関する30点以上の紙の文書が見つかっています。通常、土の中にある紙は腐ってしまいますが、これらは役人によって作成された後、漆(うるし)が塗られていたため、何世紀もの時を超えて奇跡的に保存されていましたが、これは意図的な保存ではありませんでした。役人たちは、古くなった不要な文書を捨てずに、城内で働く漆器職人に譲ることがあったのです。職人たちは、漆を入れておくお椀や木の桶に、この紙を蓋として被せて使いました。その結果、漆が徐々に紙に染み込み、腐食から守る強力な保護層となって、現代まで残ることになったのです。

発見当初、研究者たちはこの硬く黒ずんだ紙の塊を見て困惑しました。漆のせいで肉眼ではほとんど文字が見えなかったからです。しかし、特殊な赤外線カメラを通すことで、はっきりと文字を読み取ることに成功しました。解読された文書には、役人同士の手紙や、人口調査、税務記録などが含まれています。

人面墨書土器

秋田城跡から出土した土器の中には、墨で人の顔が描かれているものがあります。これは「人面墨書土器」と呼ばれ、9世紀前半に使われていたものです。当時の人々は、これを「ケガレ(不浄や災い)」を払うために使っていたと考えられています。
当時の儀式では、この土器の中に息を大きく吹き込み、しっかりと密封してから、池や小川に投げ入れていました。そうすることで、自分の体の中にあるケガレが取り除かれると信じられていたのです。また、これと同じような目的で使われたと思われる、人の形に彫られた木片も発見されています。

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名 称
秋田市立秋田城跡歴史資料館
所在地
〒011-0907 秋田県秋田市寺内焼山9−6
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9:00~16:30(年末年始休業)
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#秋田城跡

木簡

秋田城跡からは、当時の行政の様子を詳しく伝える「木簡」が300点以上も見つかっています。木簡とは、文字を書くために使われた細長い木の板のことです。これらは、役人による報告や、荷物の中身を記したリスト、あるいは荷札として使われていました。木簡は、表面をナイフで削り落とせば、下の新しい面が現れるため、何度も再利用できました。当時、紙は貴重だったため、城内での日常的な連絡や記録管理には、繰り返し使える木簡が実用的で重宝されていたのです。

また、木簡からは、秋田城に駐在していた役人たちの「日常」もうかがい知ることができます。例えばある木簡には、「地元の職人への報酬として、お酒を届けてほしい」という内容が書かれています。さらに、文字の練習に使われたと思われるものも見つかっています。同じ文字が何度も続けて書かれており、まるで現在の学生が漢字の書き取り練習をしているかのようです。書かれている文字を分析すると、この木簡の持ち主が、中国・三国時代の魏の皇族であり、詩人としても名高い「曹植(そうしょく/192年~232年)」の文章をお手本にしていたことが分かります。

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秋田市立秋田城跡歴史資料館
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#秋田城跡

鎧と刀剣

大和朝廷が勢力を北へと広げていく中で、古くからこの地域に住む「蝦夷(えみし)」との衝突は避けられないものでした。反乱を抑え、この地域を安定して治めるために、秋田城には兵士が駐留していました。城跡からは、彼らが使用していた鎧や武器が発掘されています。

8世紀頃までは、鉄の小さな板(小札:こざね)を、革や布の紐でつなぎ合わせた鎧が一般的でした。しかし、この甲冑は非常に重く、兵士の動きを鈍らせるのが難点でした。一方、秋田城周辺で発掘された甲冑は、革と思われる有機素材を縫い合わせて作られていました。これは、軽量で柔軟性のある鎧としては現存する最古の例であり、後の10世紀以降に登場する武士の甲冑の基礎となりました。

秋田城から出土した武器は、9世紀に使われていた典型的なものです。刀身は直線状で、後の時代に作られる、反りのある日本刀とは形が異なります。興味深いのは、柄の先に装飾用のつまみがついた刀も見つかっていることです。これは、蝦夷の兵士たちが好んで使っていた独特の装飾様式です。このことから、秋田城の出土品には、大和朝廷軍の刀と、蝦夷側の刀の両方が含まれている可能性があります。これらは、878年に起きた「元慶の乱(蝦夷の大反乱)」などで、実際に戦場で交えられた武器なのかもしれません。

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秋田市立秋田城跡歴史資料館
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〒011-0907 秋田県秋田市寺内焼山9−6
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#秋田城跡

政庁/先進的なトイレ技術

政庁

政庁は、秋田城の中枢となる最も重要な施設でした。ここには複数の建物と、公式の儀式を行うための広い中庭がありました。建設された当初、この施設は瓦屋根を持つ立派な土壁(築地塀:ついじべい)で囲まれていました。維持には多額の費用がかかりましたが、あえて豪華に作ったのは、大和朝廷の豊かな力を示し、訪れる使節団を感嘆させるためでした。しかし、800年代初頭になり、外交よりも軍事的な防衛が重視されるようになると、装飾的な土壁はすべて、より実戦的で頑丈な木の塀(材木塀)へと建て替えられました。

先進的なトイレ技術

秋田城の東側からは、「水洗トイレ」の跡が見つかっています。これは8世紀当時としては、非常に先進的で贅沢な設備でした。正確な技術の起源は分かっていませんが、当時の日本には水洗トイレがほとんど存在しなかったことや、秋田城が海外からの使節団を迎える場所だったことから、この技術は大陸から伝えられた可能性が高いと考えられています。

沈殿槽の土に含まれる成分を分析したところ、トイレ利用者に関する重要な手がかりが得られました。豚肉に寄生する「有鉤条虫(ゆうこうじょうちゅう)」の卵が見つかったのです。当時、日本国内で豚肉を食べる習慣はほとんどありませんでした。このため、中国や朝鮮半島など、日常的に豚肉を食べる地域から訪れた来賓が、このトイレを使っていたということが推測されています。8世紀の外交が活発だった時期にこのトイレが造られ、9世紀に渤海が使節団の派遣を停止すると撤去されていることも、この説を裏付けています。

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名 称
秋田城跡
所在地
〒011-0939 秋田県秋田市寺内大畑5
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#秋田城跡

古四王神社

古四王神社には、「建御雷神(たけみかづちのかみ)」と「大彦命(おおひこのみこと)」という二柱の神様が祀られています。この二柱は、大和朝廷が日本列島全域に勢力を広げていく際の軍事遠征の物語に深く関わる神様です。朝廷の影響力が北方へと拡大したことを象徴していたのか、かつて、この神社の社殿は「北向き」に建てられていました。また、733年に朝廷がこの地域の支配を強めるために築いた「秋田城」の歴史とも密接なつながりがあると言われています。

この神社には、古くから伝わる厳しい習わしがありました。神社の氏子(地域の人々)には、「肉、卵、牛乳を決して口にしない」という誓いがあったのです。その正確な起源は分かっていませんが、信仰上の行いとして始まったと考えられています。また、お正月の7日間は、お酒を飲むことや、村の外で作られた食べ物を食べることも禁じられていました。驚くべきことに、肉・卵・牛乳を避けるというこのタブーは、20世紀の中頃(昭和時代)まで守られ続けていたそうです。

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名 称
古四王神社
所在地
〒011-0909 秋田県秋田市寺内児桜一丁目5−55
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018-845-0333
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#土崎神明社の曳山行事

土崎港曳山まつり

土崎港曳山まつりは、地元の人々にとって一年で最も大切で、意義深い行事です。この時期になると、お正月休み以上に多くの人が故郷へ帰ってきます。祭りは7月1日の「土崎神明社」の神事から始まりますが、最高潮を迎えるのは7月20日と21日です。この2日間、町内の人々が力を合わせ、美しく飾られた木製の巨大な「曳山(ひきやま)」を通りで勇壮に引き回します。

各曳山の大きさは高さ約5メートル、重さは3トンから4トンにもなります。曳山の「正面」には、歴史上の有名な武将の人形が飾られ、合戦などの名場面が迫力満点に再現されています。一方、曳山の「背面」はガラリと雰囲気が変わります。屋根付きの舞台が設けられ、演奏者たちが座って伝統的なお囃子を奏でます。さらに舞台の上部には、時事問題を風刺したユニークな飾りがあります。ユーモアたっぷりの世相を反映した句(見返し)とそれを象徴する現代の政治家や有名人などを模した人形が掲げられ、見物客を楽しませてくれます。これらの装飾は、神様への奉納として毎年新しく作り直されています。

3トン以上ある曳山を動かすには大勢の力が必要ですが、実は曳山には急停止するためのブレーキや、方向を変えるハンドルがありません。代わりに、曳山を担当する男たちが、車輪の下に「振り棒」と呼ばれる木の棒を巧みに差し込み、方向転換や減速を行うのです。また、動くたびに木製の車輪が「ギー」と独特な高い音を立てて軋みます。また、車輪が摩擦で熱を持ちすぎないよう、こまめに軽油(軽油に白絞油を混ぜたもの)を差しながら進んでいきます。この曳山が軋む音と漂う油の匂いは、祭りに欠かせない風情となっています。

記録によると、土崎の祭りに神輿(みこし)が登場したのは1705年のこととされていますが、曳山についての最初の記録は、1789年の旅行日記に見られ、商人・学者の津村淙庵(つむらそうあん)は「通りが40もの山で埋め尽くされていた」と記しています。また、明治時代にはイギリスの旅行家イザベラ・バードの目にも留まり、著書『日本奥地紀行』(1880年)の中でこの祭りが紹介されています。長い歴史と地域にとっての重要性が評価され、1997年には国の重要無形民俗文化財に指定、そして2016年には「ユネスコ無形文化遺産」にも登録されました。

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名 称
土崎港曳山まつり
開催地
秋田市土崎地区
開催期間
7月20日・21日
お問い合わせ
018-845-2264(受付/平日9:30-17:00)
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#土崎神明社の曳山行事

港ばやし/秋田音頭

土崎港曳山まつりの音

祭りの期間中、街は音楽と熱気に包まれます。お囃子の音色、人々の威勢の良い掛け声、そして巨大な木製の車輪が「ギー」と軋む音……これらが一体となって響き渡るのが、この祭りの醍醐味です。曳山が動いている間、各曳山の後ろに乗った奏者たちは、土崎に受け継がれてきた「港ばやし」を演奏し続けます。港ばやしは、横笛、小太鼓、大太鼓、三味線、そして摺鉦(すりがね)で演奏されます。港ばやしには5つの曲があり、祭りの全体の流れのなかで、場面や雰囲気に合わせて、奏者たちが選んで演奏します。かつて(1940年代半ば頃まで)は、特定の師匠から弟子へと厳格に受け継がれていましたが、現在では希望すれば誰でも学ぶことができるようになり、地域全体でこの伝統が守られています。

曳山がルート上で停止すると、参加者たちによる踊りの披露が始まります。その中には、ユーモアあふれる地元民謡「秋田音頭(あきたおんど)」の踊りも含まれます。この唄の歌詞はとても愉快で、時には即興で作られることもあります。地元の名物や祭りの見どころを織り交ぜた歌詞にアレンジされ、観客を楽しませてくれます。なお、「土崎みなと歴史伝承館」では、これらの港ばやしや秋田音頭の録音・映像が展示されており、祭りの日以外でもその雰囲気を知ることができます。

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名 称
土崎港曳山まつり
開催地
秋田市土崎地区
開催期間
7月20日・21日
お問い合わせ
018-845-2264(受付/平日9:30-17:00)
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#土崎みなと歴史伝承館

土崎みなと歴史伝承館

「土崎みなと歴史伝承館」は、貿易や商業の中心地として栄えた土崎の歴史を伝える施設です。ここでは、特に1700年代半ばから1900年代初頭にかけて、日本海を商船が行き交っていた時代に焦点を当てています。館内では、デジタル技術やタッチパネルを使って、その歴史を分かりやすく学ぶことができます。また、別の展示室では、太平洋戦争末期にこの地を襲った大空襲の被害の記録も展示されています。

館内の見どころの一つが、「土崎港曳山まつり」に関する展示です。この祭りでは、武者人形を乗せ、木製の車輪がついた「曳山(ひきやま)」を地元の人々が曳いて町を練り歩きますが、館内には高さ11.5メートルもの曳山が展示されています。街に電線が敷かれる前には、高さ20メートルを超える曳山を曳いていました。現在では、これほど巨大な曳山が造られることはなくなりましたが、展示されている記録や写真を通じて、2016年にユネスコ無形文化遺産に登録されたこの祭りの壮観な様子をうかがい知ることができます。

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名 称
土崎みなと歴史伝承館
所在地
〒011-0945 秋田県秋田市土崎港西三丁目10−27
営業時間
9:00~17:00
休館日
火曜日(火曜日が祝祭日の場合は翌日)
年末年始(12/29-1/3)
お問い合わせ
018-838-4244
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#土崎みなと歴史伝承館

土崎地区の歴史・成り立ち

港町土崎

この港町は、700年代から長きにわたり、国内外との交流の場となってきました。土崎と、現在の近代的な秋田港の歴史は、かつて大和朝廷の最北拠点であった「秋田城」の近く、雄物川の河口に港が築かれたことにまで遡ります。900年代に秋田城がその役割を終えた後も、土崎はこの港とともに発展を続けました。

1700年代に入ると、土崎は大阪と北海道を結ぶ沿岸航路の重要な中継地として栄えました。北へ向かう船も、南へ向かう船も、日本各地の商品を積み込んで、この土崎の港に立ち寄ったのです。1900年代初頭、船の主役が帆船から近代的な蒸気船へと変わると、地元の企業家たちは、より優れたインフラ整備が急務であることに気づき、行動を起こしました。こうして港は近代化され、1941年(昭和16年)に「秋田港」と改名されました。現在もなお、人々、物資、技術が行き交う重要な拠点となっています。

時代や技術が移り変わっても、毎年、地域の人々の心をひとつにし続けているのが「土崎港曳山まつり」です。祭りのクライマックスでは、地元の人々が「曳山(ひきやま)」と呼ばれる巨大な木製の山車を曳いて、町内を勇壮に練り歩きます。車輪が軋む音、そして参加者たちの熱気あふれる掛け声。それらは、土崎の街に今も息づく、活気あふれる「港町の精神」そのものを体現しているのです。

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名 称
土崎みなと歴史伝承館
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〒011-0945 秋田県秋田市土崎港西三丁目10−27
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休館日
火曜日(火曜日が祝祭日の場合は翌日)
年末年始(12/29-1/3)
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#土崎みなと歴史伝承館

北前船について

北前船の到来

1700年代半ばから1900年代初頭にかけて、土崎は大阪と北海道を結ぶ交易ルートの重要な中継地として繁栄しました。日本海の都市や町を結ぶこの航路を行き来した木造の商船は、総称して「北前船」と呼ばれ、物資だけでなく、文化や情報の交流も促進しました。この交易によって土崎にもたらされた富は莫大なものでした。中には、当時の社会で上位階級にあった武士よりも裕福な暮らしをする商人も現れたほどです。

この航路が最初に開かれたのは1670年代のことですが、北前船による交易が本格的に活発化したのは、独立した商人が船を使って商品を運ぶようになった1700年代半ばからです。彼らのビジネスは、単に大阪から北海道へ荷物を運ぶだけではありませんでした。寄港する港ごとの価格差を利用し、安く仕入れて高く売るという、まさに「動く総合商社」のような商売を行っていたのです。彼らは独自の知識と経験を生かして価格を設定し、大きな利益を生み出しました。その額は、1回の往復で、現在の価値にして約1億円もの利益を上げることもあったと言われています。

取引された商品の中で、最も人気があったものの一つが、北海道で獲れた「ニシン」です。ニシンは単なる食料としてだけでなく、発酵させて栄養豊富な肥料に加工されたり、電気がなかった時代の貴重な灯りとなる「ランプ油」の原料にもなりました。こうした加工品は非常に価値が高く、仕入れ値の5倍から10倍もの値段で売ることができたそうです。

港周辺の史跡:
絵巻物が伝える200年前の風景

18世紀後半から19世紀初頭にかけて描かれた『秋田街道絵巻(あきたかいどうえまき)』という絵巻物には、当時の土崎が活気あふれる港として生き生きと描かれています。荻津勝孝(おぎつかつたか/1746~1809年)の作品とされるこの3巻の絵巻物からは、200年以上前の港町の人々の生活を垣間見ることができます。そして、そこに描かれた建造物のいくつかは、現在もこの街に残っています。

絵巻の1つの場面には、海岸を見下ろす丘の上に立つ「石塔」が描かれています。1643年に裕福な商人によって建てられたこの塔は、港に入ってくる船乗りたちにとって大切な目印となっていました。元の塔は1804年と1810年の地震で残念ながら倒壊してしまいましたが、その後、1967年に同じデザインの石塔が移築され、往時の姿を伝えています。

また、絵巻物には「宝塔寺」にある御影石の塔も描かれています。この塔には、17世紀から18世紀にかけての、ある不思議な伝説が残されています。ある時、土崎に入港しようとした商船が激しい嵐に見舞われ難破寸前になりました。その時、突然寺の近くに「不思議な光」が現れ、船はその光に導かれ、奇跡的に無事に陸地へたどり着くことができました。商人たちは「あの導きの光は、寺の守護神が与えてくれたものに違いない」と信じ、感謝のしるしとして資金を寄進し、この五重塔が建てられたと言われています。

「土崎みなと歴史伝承館」では、この『秋田街道絵巻』をデジタル版で閲覧することができます。絵巻の中に描かれた風景と、現在も残る史跡を見比べながら、歴史散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。

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名 称
土崎みなと歴史伝承館
所在地
〒011-0945 秋田県秋田市土崎港西三丁目10−27
営業時間
9:00~17:00
休館日
火曜日(火曜日が祝祭日の場合は翌日)
年末年始(12/29-1/3)
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018-838-4244
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#土崎みなと歴史伝承館

土崎空襲展示

土崎空襲

太平洋戦争末期の1945年、土崎は空襲によって壊滅的な被害を受けました。なぜこの場所が狙われたのでしょうか。それは、港の近くに当時国内最大級の規模を誇る「石油精製施設」があったためです。米軍による空襲と、その後1週間近く続いた火災により、250人以上の方が亡くなり、200人以上が負傷するという痛ましい被害をもたらしました。

攻撃が始まったのは、8月14日の午後10時30分頃のことです。爆撃は翌日の未明まで続き、米陸軍航空軍第315爆撃団によって12,047発もの爆弾が土崎に投下されました。この作戦に参加した132機の爆撃機のほとんどは、広島や長崎に原爆を投下したのと同じ機種の大型爆撃機「ボーイングB-29」でした。この攻撃からわずか12時間足らずで、昭和天皇により日本の降伏が宣言されました。そして、これが太平洋戦争における最後の空襲となりました。

爆撃の猛火を耐え抜き、石油精製所の近くに1棟だけ残った倉庫がありました。2017年にその建物が解体された際、損傷した鉄筋コンクリートの柱や天井の梁(はり)の一部が、「土崎みなと歴史伝承館」に移設・保存されました。展示されている柱は、爆撃の衝撃と熱で折れ曲がり、一部が溶けてしまっています。これらの遺構は、この地で起きた悲劇の歴史を、今に静かに伝えています。

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名 称
土崎みなと歴史伝承館
所在地
〒011-0945 秋田県秋田市土崎港西三丁目10−27
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9:00~17:00
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火曜日(火曜日が祝祭日の場合は翌日)
年末年始(12/2〜1/3)
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018-838-4244
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#土崎神明社

土崎神明社

土崎神明社は、「天照皇大神(あまてらすおおみかみ)」をお祀りしている神社です。この神社で最も重要な例祭は、巨大な木製の山車が街中を練り歩くことで知られる「土崎神明社祭の曳山行事(土崎港曳山まつり)」です。曳山行事の本番は7月20日と21日に行われますが、それに関連する様々な神事や奉納は、実は5月から9月にかけて長く続けられています。このお祭りは、その歴史と文化的な価値が認められ、2016年にユネスコの無形文化遺産に登録されました。

土崎神明社は、1620年に土崎の「肝煎(きもいり/地域の代表者)」であった川口惣治郎(かわぐちそうじろう)によって創建されました。当時、地元の人々は「港の近くに祈りを捧げる場所がない」ことをとても心配していました。その切実な声を受けた川口は、当時の秋田藩主・佐竹義宣(さたけよしのぶ/1570–1633)公から許可を得て、佐竹氏の前の大名(安東氏)の居城であった「湊城(みなとじょう)」の跡地に、この神社を建てたのです。

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名 称
土崎神明社
所在地
〒011-0946 秋田県秋田市土崎港中央三丁目9−37
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#秋田港

秋田港の変遷①

港の近代化

1800年代後半まで、土崎の経済は日本海を行き交う交易船「北前船(きたまえぶね)」の寄港地としての役割が中心でした。しかし、1868年の明治維新をきっかけに、社会は劇的に変化します。新政府は鎖国を解き、西洋の技術を積極的に取り入れて工業化を推し進めました。この動きが、近隣の油田開発と、土崎港の近代化へとつながっていきます。

1900年代初頭になると、海運の主役は帆船から、より大きく高速で、日本海の荒波にも強い「蒸気船」へと代わりました。しかし、当時の土崎の港は水深が浅く、大型の蒸気船が直接岸に着くことができませんでした。そのため、沖で小さな船に荷物を積み替えて陸揚げしなければならず、作業の効率が悪かったのです。この問題を解決するため、地元の経済界が協力し、1902年(明治35年)に蒸気船用の埠頭が建設されました。その後も施設の拡張が続き、1941年に土崎町が秋田市と合併した際、港の名称も「土崎港」から現在の「秋田港」へと変更されました。

港の近代化とともに、近隣の油田から採掘される石油を処理するための大規模な製油所が建設されました。20世紀前半、秋田県は日本最大の産油地帯の一つであり、1945年から1955年にかけては、国内生産量の70%近くを占めるほどでした。しかし、輸送や製造に不可欠な石油の一大拠点であったことが悲劇も招きました。太平洋戦争末期には、製油所のある土崎は米軍の攻撃目標となり、終戦間近の大空襲によって、港や街は甚大な被害を受けることとなったのです。

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名 称
秋田港
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#秋田港

秋田港の変遷②

秋田港:現在、そして未来へ

秋田港は、海運・製造・観光の中心地であり、現在も日本と世界を結ぶ重要な接点であり続けています。

第二次世界大戦後の復興期、地元の人々は日本海の荒波から港を守る防波堤が必要だと痛感していました。しかし、連合国軍占領下(1945~1952年)の厳しい経済状況では、大規模な工事の資金を集めることはほぼ不可能でした。そこで役所が下した決断は、一から防波堤を作るのではなく、ドックに放置されていた「3隻の軍艦(駆逐艦など)」を沈めて防波堤にするという驚くべきものでした。こうして作られた全長268メートルの防波堤は、港の拡張に伴って撤去される1975年(昭和50年)まで、この港を波から守り続けました。

現在、秋田港はさまざまな産業を支える拠点となっています。コンテナターミナルは東北地方の輸出入の要であり、韓国や中国からの貨物船が週に数回寄港します。また、海外から輸入した原材料をすぐに受け入れられる利点を活かし、港の周辺には製紙工場や金属精錬所など、複数の工場が立ち並んでいます。

かつて秋田城を訪れたような外交使節団は昔の話ですが、秋田港には今も国内外のクルーズ船が寄港し、多くの観光客を迎え入れています。そして、何世紀にもわたって続いてきた商業と文化の交流を未来へつなぐため、新たなシンボルも誕生しました。2023年、この地に国内初となる本格的な商用「洋上風力発電所」が建設されたのです。秋田港は、次世代のエネルギー拠点として、新しい未来を切り拓いています。

PICK UP

名 称
秋田港
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#秋田港

洋上風力発電

秋田港における洋上風力発電

日本海に面した秋田県は、年間を通して強い風が吹いています。県ではこの風の強さを生かし、2000年以降、280基以上の「陸上」風力タービンを設置してきました。そして近年、カーボンニュートラルな社会を実現するための重要なステップとして、「洋上」での風力発電に力が注がれています。

秋田港の遠浅の海底地形は、日本初となる大型洋上風力発電所の建設に適していました。2023年1月、13基の風車が稼働を開始し、1基の風車で約4,000世帯分の電力を発電しています。

洋上での建設には難しさもありますが、陸上とは違い、既存の建物やインフラに配慮する必要がありません。また、自然の地形に遮られることもないため、より巨大な風車を建てることが可能です。陸上風車の平均的な高さは約120メートルですが、秋田港の洋上風車は海面からの高さが最高150メートルにも達します。これは、秋田港のシンボルである「ポートタワーセリオン(143メートル)」をわずかに上回る高さです。この巨大なタービンが海風を効率よく捉え、多くのエネルギーを生み出しているのです。

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#秋田港

道の駅あきた港
ポートタワーセリオン

土崎への玄関口:ポートタワー・セリオン

「ポートタワーセリオン」は、土崎散策の出発地点として最適な場所です。クルーズ船のターミナルからも歩いて行ける距離にあり、秋田港を一望できる展望台からの大パノラマが自慢です。館内には、ランチやスイーツを楽しめるレストランや、地元の特産品や伝統工芸品が揃うショッピングエリアも充実しています。また、春から秋にかけては、タワーの入口付近の屋台で、地元で大人気の名物「ババヘラ」アイスを味わうことができます。バナナ風味とイチゴ風味のアイスを、ヘラを使って器用に「バラの花」の形に盛り付けた、カラフルで可愛らしい一品です。
高さ100メートルにある展望台への入場は無料です。ここからは、日本海沿岸に並ぶ洋上風力発電の風車をはじめ、周辺地域の鳥瞰図のような景色を楽しむことができます。空気が澄んだ日には、南の地平線上に鳥海山(2,236メートル)を望むこともできます。また、南東の方角を見れば、かつて秋田城があった森に覆われた丘の向こうに、秋田市の中心市街地を遠く眺めることができます。

佐原のうどん自動販売機:
愛され続けるレトロな味

ポートタワーセリオンには、密かに絶大な人気を誇るスポットがあります。それは、温かいつゆ入りの「うどん・そば」が出てくる、レトロな自動販売機です。この自販機は、もともと近くにあった「佐原商店」に設置されていたものです。佐原商店は、秋田港に停泊する船の乗組員向けに、食料品や衣類などを販売するお店でした。1973年、不規則な時間帯で働く船員さんたちが「温かい食事」をとれる場所が少ないことに店主が気づき、この自販機を設置したのが始まりです。風味豊かなつゆと地元産の麺を使ったその味は、長年にわたり地域のシンボルとして愛されてきました。

2016年に佐原商店が閉店した際、多くのファンの声に応える形で、自販機は現在のセリオンに移設されました。実はこのモデル、1980年以降は生産されておらず、修理用の部品を手に入れることさえ困難な状況です。それでも大切にメンテナンスされながら現役で稼働しており、忙しい日には1日約200杯も売れるほどの人気ぶりです。ポートタワーセリオンの館内では、この自販機のロゴ入りグッズや「うどんの汁味」のアイスクリームが購入できます。

PICK UP

名 称
道の駅あきた港 ポートタワー・セリオン
所在地
〒011-0945 秋田県秋田市土崎港西一丁目9−1
営業時間
9:00~21:00
お問い合わせ
018-857-3381
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#秋田の食

土崎の酒蔵

土崎の酒造り

土崎にある酒蔵「那波商店(なばしょうてん)」は、地元の濃い味付けの郷土料理にも負けない、風味豊かなお酒を造り続けています。
最も人気の高い銘柄は「銀鱗(ぎんりん)」です。この美しい名前は、地元の漁師たちが歌う伝統的な民謡の歌詞から名付けられました。那波商店のお酒は、土崎や秋田駅周辺の酒屋で購入することができます。

この酒蔵のルーツは1807年にまでさかのぼります。当時、名主(なぬし/地域のリーダー)であった那波祐生(なばすけなり/1772~1837)が、代官所から酒造りを命じられ、醸造の研究施設を設けたことが始まりです。
その後、1871年(明治4年)に子孫が酒造業として独立させ、現在の形となりました。1928年(昭和3年)に完成した現在の建物は、当時としては画期的な、東北地方で唯一の「鉄筋コンクリート造り」の醸造所でした。この建物の設計を手掛けたのは、花岡正庸(はなおかまさつね/1883~1953)です。彼は、お米を低温でじっくりと長期間発酵させる方法を開発した人物であり、その功績から「秋田の酒造りの父」と呼ばれています。
近代的な設備と伝統の技が融合したこの場所で、今も美味しいお酒が醸されています。

PICK UP

名 称
那波商店
所在地
〒011-0946 秋田県秋田市土崎港中央一丁目16-41
営業時間
8:40~17:30(土日休業)
お問い合わせ
018-824-5341
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#秋田の食

カスベ煮/北限のふぐ

カスベ煮(エイの煮付け)

お店のメニューや食卓への「カスベ煮(エイの煮付け)」が登場し始めると、地元の人々は「いよいよ土崎港曳山まつりが近づいてきたな」と心が浮き立ちます。

カスベ煮は、干したエイ(カスベ)を水で戻し、醤油、砂糖、みりんでじっくりと時間をかけて煮込んだ料理です。一度干して戻すことで、魚には独特の深いうまみが生まれ、地元の日本酒との相性は抜群です。この「干して戻す」という調理法は、冷蔵技術がまだ発達していなかった時代、魚を運搬するために保存性を高める必要があったことから生まれました。調理にとても手間と時間がかかるため、かつては日常的な家庭料理でしたが、現在では主に祭りシーズンの特別な料理として、飲食店などで味わうことができます。


フグ

秋田県沿岸の冷たい海では、フグは特にゆっくりと時間をかけて成長します。このゆっくりとした成長こそが美味しさの秘密です。身が引き締まり、噛み応えのあるしっかりとした食感が生まれるのです。

地元の漁師たちが本格的にフグの漁獲量を増やし始めたのは、1992年頃のことでした。当時、秋田で最も人気のある魚「ハタハタ」の漁獲量が減少し、資源を回復させるために3年間の全面禁漁が行われました。その対策として、漁師たちはハタハタの代わりにフグに注目したのです。これを受けて、地元の飲食店も協力し、秋田フグならではの独特の味をアピールし、新たな郷土料理を生み出しました。

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